自分が使う「言葉」に素直になること(参考書籍:天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ)

僕は3年前に大手メーカーからベンチャーに転職し、それまで周囲が現場の営業職ばかりという環境から、マーケターや企画、エンジニア、そして営業職という多種多様な職種の人と働く環境にと様変わりしました。もちろん、キャリア背景も全然違い、特にコンサル出身の人や、ベンチャー生え抜きの人などは使っている言葉さえ理解できないところからセカンドキャリアが始まりました。

 

KPI、to be 、オペレーション、あるべき・・・

 

確かにこういった言葉は非常に扱いやすい。慣れるのは早かったです。自分が物事を整理するときにも使うようになりました。共通言語としては機能的だと思います。

今では、インターン生や別業界からの転職組に対して自分自身が、「すんません・・この言葉の意味ってなんですか?」と聞かれる対象です。

そんな中、北野唯我さんの「天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ」を読んでいてハッとする一節がありました。

 

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自分の言葉に嘘はないか?

 

そもそもな、言葉にはたくさんの嘘が混じっている。嘘というのは、ホンマは自分の言葉じゃないってことや。誰かから借りてきた言葉なんや。大人が使う言葉を見てみい。ほとんどの言葉は「他人がつくった言葉」なんや。

 

まずこの一節に目を通した時に、自分自身、確信犯的にこうした「他人の言葉」でごまかしている局面が具体的な映像として思い浮かんできました。

例えば、下記のようなケースです。

1)営業組織全体へのメッセージを伝える時

2)部下の課題に対する打ち手をあれこれ一緒に考えている時

それも、たいていの場合話のオチに使いがちだと気づきました。

「〜という状況なので、是非成功事例などあったら横展してみてください。」

「KPIに対して〜くらいショートしそうなので、各自そのGAPを埋めるための思考をお願いします」

結構あるなと。もちろんすべてが悪いわけではありませんが、自分で言葉を発していて空をきっているような感覚を覚えるときがあります。

 

「他人の言葉」を使ってしまっている場面

日々意味のないことはあまり発言したくない、自分で思ってないことは言いたくない、と思ってはいますが、「形式」を重んじる場合、もしくは「立場」を重んじる場合にこういった言葉(本書でいうと「他人の言葉」)を使っています。

先ほどの、1のケースだと「形式」を重視する場だし、2のケースだと「立場」を意識した場です。これらを大事にすると言葉の嘘が出やすい。

  

では、こういった「形式」や「立場」を重んじる場合は、なぜ他人の言葉を使ってしまうのか。

それは、自分の素直な思いを、過度に一般化し、「誰でも理解できるような言葉」や「誰からも批判されないような言葉」に変換してしまうからではないでしょうか。

本当は頭に思い浮かんだ、新鮮な言葉が一番伝わりやすいのに、自分の上司の目線、部下の目線、同僚の目線、全員に理解できるように言葉を変換してしまうことで、一人一人には深くささる言葉ではなく、全員がちょっとずつわかる言葉にグレードダウンする。

本書でも下記のように書かれています。

 

「なぜ、人が他人の言葉を使うか、わかるか?」

「なぜ・・、わかりません」

「それはな、楽やからや。圧倒的に。他人の言葉は便利や。自分が主語じゃないから、意思もいらない。究極的に、他人のせいにできる。」

 

「自分の言葉」を使えている場面

一方でこうした「他人の言葉」を使わず、「自分の言葉」を支えている場面はどんな時か。それは、新鮮な思考と同時にセットででてくる言葉ではないでしょうか。

例えば、

・チームメンバーと課題に対してディスカッションしている時

・部下の課題に対して上司であるという立場を忘れて、一緒に解決しようと四苦八苦している時

僕はこういった時には、カタカタは使わないし、むしろかなり辿々しい日本語を使っているような気がしますが、相手と相互に理解し会えるし、気づきも得られているような気がします。

 

こうして考えると、自分がその事象に対してどれだけ自分事として捉える事ができているか、自分の意思を込める事ができているかによって言葉の選択が変わる事に気づきます。逆に言えば、使っている言葉によって、自分でその真剣さや本気度を測る事ができるということでもあります。

 

そして著者は、こう言ってます。

 

「他人の言葉」では人の心は動かせない。

人の心を動かすのは「自分の言葉」だけだ。

 

だから、「他人の言葉」を使っている自分に気がつき、「自分の言葉」を使おうと。

 

天才も秀才も凡人も全て「自分の言葉」を大切にするべき

上記の「自分の言葉」を使おうというメッセージは、あくまでも本書で3つに分類される才能(天才・秀才・凡人)のうち、凡人に必要な「最強の武器」として紹介されています。

しかしこれは、天才だろうが、秀才だろうが、凡人だろうが、すべての人間に言えるのではないでしょうか。

 

天才は言われなくてもやっている

考えてみると、一般的に天才だと思われるような人は、意図的なのか、天然なのかわかりませんが、やはり自分の言葉を使っていると思います。決して賢そうな言葉回しでもなければ、理解できない芸術のような言葉回しでもなく、シンプルな言葉を使って自分の思いを表現する。

最近では、『動画2.0 VISUAL STORYTELLING (NewsPicks Book)』の明石ガクトさんや、『メモの魔力 The Magic of Memos (NewsPicks Book)』の前田裕二さんでそのようなことを感じました。(今気づきましたけど、どっちもNewsPicksBookですね)

だとすると、天才と凡人は何が違うのか。それは、意識か無意識かの違いかと思います。天才は無意識のうちに当たり前のようにできるが、凡人は意識しないとできない。

 

凡人も天才になれる?

本書の後半では、それぞれの人間が3分類にタイプ別されるという主張ではなく、自分の中に3分類のタイプが存在していると説明しています。

つまり、凡人も天才を飼っているし、天才も凡人を飼っているという事。

では、何が一体その差をわけるのかというと、「ストッパーとなる存在」を取り除く事ができるかどうかです。なかなかに抽象度の高い部分ではありますが、下記の説明がマジでわかりやすかったです。

 

夜中に、めちゃくちゃおもしいことを思いついて、メモった。明日すぐに発表しようと思う。ワクワクする。だども、翌朝見直してみたら急に「全然筋が悪そう」に見える。結果、昨日の自分がバカみたいで恥ずかしく思い、メモを削除する。

(中略)

実際、このときのプロセスっていのは、頭の中で、天才→秀才→凡人の三者が、順番にポコポコ出てきているんや。君の中にいる「天才」が思いついたアイデアを、社会的な基準やロジックで「良いか悪いか」を判断するのが、秀才や。そして最後に「恥ずかしい」とか「周りからどう思われるか」と感情で判断する。結果、やっぱりやめとこう、と凡人が出てきてしまう」(創造性→再現性→共感性というプロセスを経る)

(中略)

才能を活かせないのは、才能があるかないかより前に、「ストッパーとなる存在」を取り除くことの方がはるかに大事なんや。これが「本当の自分になる」ための方法論なんや。

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つまり、夜中のアイデアをどれだけ大切にできるか。昼間の論理性や共感性というストッパーに対するストッパーを飼うことができるか。突拍子もないアイデアかもしれませんが、それを殺さずに自分自身が面白いままアウトプットできるか。

天才はもしかすると、自分のアイデアを客観視したときの「共感性」がたまたま弱くて他の人が恥ずかしいと思うようなことをたまたまアウトプットしちゃっているだけかもしれませんが、それをできる人が圧倒的マイノリティだということ。であれば、恥ずかしくても殺さずに出してみよう、と。それが天才に一歩近づく手段なのかもしれません。

 

序盤で、ディスカッションの最中では「自分の言葉」を使えていると書きましたが、きっとそれも「夜中のアイデア」と変わりません。ただ新鮮だから、ぱっとでたものだから、他者に伝えるのが恥ずかしいという「凡人」の「共感性」によるストッパーが出現しないまま、「自分の言葉」によるアウトプットが「偶然に」できている状態だと言えます。

一方で、それを一晩寝かせて、改まって人に発表する、この間に自分の中の秀才や凡人にそのアイデアが殺される、もしくは「他人の言葉」にグレードダウンします。

アイデアはそのままアイデアとしてストックする。妙に考えすぎない。そして、煮詰めるときは共感性や論理性だけではなく、最初の状態をしっかり覚えておく。なんども最初に立ち返る。そのくらいやったほうが、最終的に質の良いアウトプットができるのではないかと思います。

 

自分の言葉に注目して、他人の言葉を使ってたらヤバいと気づく。

自分の新鮮なアイデアに対して、それを否定したり、バカにしている自分に気づく。

 

こういった意識の根底から見直そうと思える本はなかなかありません。これだから読書はやめられない。

 

◆このブログで紹介した本

天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ

天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ